当寺は、豊岡市奈佐地区矢次山中腹(祇林山)に約650年以上前に真言宗寺院として建立されたと伝わります。
室町時代に、本寺と地元豪族との諍いが起こり、但馬国主である山名氏の命令により、出石廣原(弘原)に移転することになりました。
戦国時代末期、織田軍の但馬侵攻に伴い、豊臣秀吉から廣原の地を明け渡すよう命じられ、出石町小人地区に移転します。
江戸(元禄)時代には赤穂義士の一人である小山田庄左衛門の親族が出家し、入寺しています。
元々「小山田姓」を名乗っていましたが、後に「山田姓」に変更しています。庄左衛門が討ち入りに参加せず、出奔したことが原因のようです。
明治政府による廃仏毀釈運動によって強制的に合併させられましたが、運動廃止後、現在の地に念仏道場を改修して寺院としての新たな一歩を踏み出しました。
この地は、山名氏の家臣だった垣屋氏の館跡だと推察されます。また、豊岡藩京極家の陣屋であり、日本地図を作成した伊能忠敬が滞在した場所でもあります。
その後、平成11年10月に現在の本堂と庫裡が完成しています。
寺院の次男として生まれ、元々は後継者ではなかったのですが、住職(父)の急逝によって急遽指名され、住職となって早くも30年が過ぎました。
私が住職になるなど私自身が想像も出来なかったことですが、あの時、跡を継いでいなければ、生きものの「いのち」の尊さ・悲しみ・喜びを見守って下さる御仏様の、暖かな眼差しとお心に気付く事はなかったでしょう。
今思えば、あらゆるご縁とお導きが私の上に働いてくださっていたんだなと、しみじみあじわうこの頃です。
境内の樹木や本堂内を紹介します